ぱせりのお部屋

日常の愚痴や感じたこと、何気なく思ったことなどを徒然に書き込みます。

彼岸花の群生地



すぐ近くにある巾着田というところには、毎年曼殊沙華が咲きます。


先週から行楽日和が続き、週末の雨を除けば、高麗駅から徒歩15分ほどなので、飯能駅から路線バスも出ており、行楽客が押し寄せてきてました。


まあ、この光景も4年ぶりじゃないですかね。


高齢者の団体さんは、路線バスを利用される方が多く、家族連れの方は、自家用車利用が多いようです。


また、コンビニも喫茶店もあるので、この時期と春先は賑わいます。


ただ、コロナ禍が始まった時は、咲き誇る罪のない彼岸花をすべて刈り取った光景は、とても残酷に目に映りました。


花は愛でるものですが、人間の都合で刈り取られる。


酷い話だな…と思いつつ、曼殊沙華は球根で株分けすると聞き、あの見事なヒガンバナは、実はクローンなのだと知り、とても驚いたものです。


そういえば、子どもの頃、近所の農家のお年寄りが、「この花に触ったらあかんよ、毒があるさかい」と言われ、株を分けて植え、花が咲いたら、また株を分けて何年もかけて増やすのだと、そう教えてもらったことを思い出した。


毒があるのは、花じゃなくて球根の方で、実は畑を荒らす害獣(モグラ)駆除のためだと聞いたとき、『嗚呼、だから墓地の周りに咲いてるのをよく見るんだ』と分かった。


あれから二十数年が経ち、この街にやってきて、ヒガンバナの群生地があると知り、子どもの頃の遠い記憶を思い出す。


毎年、この季節が巡ってくると、そんな子どもの頃の何気ない思い出を思い出す。


故郷は、遠くにあって思うもの…なんて、フレーズが頭に浮かぶ。


赤い彼岸花、群生している光景は見事で、とても綺麗ですもんね。


ただ、子どもの頃に臨死体験したことがあって、夢の中で見た光景に似ているな…と、ふと思うことがある。


あの光景は、赤だけじゃなく、黄色や白も混ざってたんだけどね。


あと、季節感なくて、コスモスやヒマワリなど、様々な草花が沢山咲いていたんだけど。


たぶん、あの世とこの世のはざまには、こんなきれいな花畑があるんだと思う。


ちょうどお彼岸の季節だしね、連想しちゃいます。




さて、そんなヒガンバナが群生する日高市には、高麗神社という有名な神社がある。


ここも初詣は、めちゃめちゃ混むんですよねえ。


二回ほど参拝しましたが、あまりの人の多さに、もう足が向きません。


平素はね、観光客がチラホラ参拝する程度で、静かなところです。


その高麗神社の説明は、有名なので割愛にしますが、彼等御一行様は、この武蔵野の地に移り住んだと言われています。


千四百年前と言えば、奈良時代ですよね。


平城京は、710~784年までの74年間、奈良に都が遷都された期間の事ですが、天智天皇の治世において、666年に使節団一行の中に玄武若光という名があるそうで、同一人物かどうかわからないが、当時の高句麗王の子息として、日本へ帰化して高麗若光という豪族になったとされているという。


へえ、あまり歴史は得意じゃないんだが、天智天皇と言えば大化の改新(乙巳の変)で、都を近江(淡海?)へ移したと言われている人物だ。


まあ、あまりにも有名な日本史で習うクーデターなので、誰でも知っていると思う。


この時代、頻繁に都をあちこちに移しているので、ぼんやりとしか記憶にないのだが、大和朝廷に使えた豪族の一人が、この武蔵野一帯に移り住んだ高麗若光という人物なわけで、そんな大昔から住んでいたら、その彼等の子孫は土着民じゃんね。


今の日本人は、縄文と弥生のDNAを持っているというし、弥生人は渡来人だもんね。


みんな何かとの混血なのよ。


で、その乙巳の変の裏舞台に名を馳せるのが、有間皇子っていう人物がいて、罪を着せられて死罪になる。


この辺りの話を子供の頃、何度も聞かされて、割と知ってたりする。


ただ、当時の都がどこにあったのか、何処を目指して有間皇子(孝徳天皇の皇子)は連行されたのか、なぜ道中にある海南市辺りで埋葬されたのか…今だ謎が多い。


あそこから見渡すと、晴れた日に見えるのは淡路島と徳島だ。


目と鼻の先に淡路島が見える。


だって、飛鳥宮が奈良だったら、埋葬された地というのが辻褄が合わない。


望郷の念という言葉があるように、無念な死を遂げ故郷思う時、たとえ見えなくてもその方角に埋葬しない⁉


紀ノ川の上流を遡れば、奈良盆地があるのよ。


故郷でもなく、馴染みのある紀州崎の湯でもない、海南市の辺りというのが解せない。


そもそも岩代の峠の松の木の辺りで死刑になり、切られた首はまた来た道を戻って、崎の湯で湯治する斉明天皇?だっけ、に献上されている。


岩代から海南市の距離、白浜へ戻るよりあるのよね。


ちなみに、当時は陸路より海路を使うという。


そして岩代から白浜は、田辺湾を挟んで見える位置にあるので、わざわざ海南市辺りに運ぶ必要があったのかな。


中途半端すぎて謎。


でも、飛鳥宮が奈良じゃなく、海を挟んだ向かい側だったら…話は別だろう。


わざわざ運んできて、埋葬する意味あるよね。


じゃあ、時の朝廷は、本当はどこにあったのか。


大和って、本当は大倭じゃないの⁉


で、大倭は阿波にあったりしてね、推測だけど。


その大倭に使えた高麗若光は、帰化人か。


へへ、なんてね、試行錯誤してみる。


たぶん、大和政権のあった都が、奈良にあったという思い込みが、そもそも違うのだと思うよ。


そう、何かによって、誤認させられている。


だってね、和歌山には吉備って地名もあるのよ。


平成の大合併で消えた町の名前だけど、他にも那賀郡とか、そっくりな地名が鏡のように存在する。


そもそも吉野川って名前を聞いて、関西人は奈良を思い浮かべるけど、紀ノ川の向かいにある四国を流れる川の名前だからね。


最初にこの川の存在を知るのは、小学生の社会科で、次が中一の地理の時間だ。


そっくりな地名のわけは、大陸から人が移動し、西から東へ移り住んだ名残と教わる。


だったら、歴史に登場する地名や人物の名前って、無関係じゃないよね。


ってことで、何気に調べた橿原神宮の元宮って、何処にあるのかなと思った。


同じ理由で、本物の出雲大社と呼ばれたお社はどこ⁉みたいな理由から、Googleで調べて納得した。


木の国和歌山の紀伊は、伊予の国の伊と紀氏家の紀だったよ。


まあ、そんな感じで辿っていったら、四国って重要じゃんって思った。


で、日本の始まりの都は、奈良じゃなかったね。


あとは、日前・国懸神社の謎、もう少し追っかけてみたい。