ぱせりのお部屋

日常の愚痴や感じたこと、何気なく思ったことなどを徒然に書き込みます。

病院と戦っても勝ち目はない

生まれた時から、難病と闘って、命をつないだ息子は、小学校入学前には広汎性発達障害という病名が付けられ、同月齢のお子様より、およそ2年ほどの発達の遅れがあると診断された。


これはもう仕方がないし、何度も生死の境を彷徨ったわけで、1~2歳の頃は巷でSARSも流行っていて、綱渡りを繰り返した。


入院していたのに、見舞いに来る大人から感染したお子様たちは、次々とICU送りになり、我が子ももれなく院内感染した。


病棟へ入室前は、手洗いうがいもしていたのに…である。


まあ、しない人も中にはいただろうけど、病棟Nurseや担当医の説明では、外から持ち込まれたという事だった。


本当か嘘かは知らんけど、私たちは確かめようはないからね。


只得冴え、腸炎から脱水症を起こして入院治療中なので、絶食しており、やせ細って骨皮筋衛門状態だったので、抵抗力も弱く、高価な抗生物質を使用し、その副作用は…という代物を使うしかなかった。


まあ、そんなわけで、息子の成長は止まってしまった。


その頃の私の精神状態は、Maxで悪かった。




さて、私は息子を出産するとき、肉体的にも精神的にもかなり消耗している。


特に帝王切開だったので出血が多くて、生命維持に必要な量ギリギリだったそうで、造血剤を二本も打たれている。


本来ならば輸血するところだが、生まれた息子がNICUへ入れられたので、母乳や輸血が必要になった時、私しかいないので、輸血はギリギリまで避けたいと言われた。


おかげで極度の貧血状態になり、真夏なのに、湯たんぽと冬用布団二枚を重ねても間に合わないほどの寒気に襲われ、死にかけた。


何とか乗り切ったが、歩けるようになるまで三日を要し、およそ十数歩ほどの距離にあるトイレまで、半時間かけていく有様で、子どもの様子が気になるので仮退院したのは、産後一週間目の事だった。


通常、帝王切開の場合は二週間ほど入院するのだが、私はそんなことを言ってられる余裕はなく、無理に無理を重ねて退院させてもらった。


退院して二週間後、息子はストーマ造設手術を受け、病棟へ移るので付き添いを求められ、まだ体力もままならない状態の中、3ヶ月付き添った。


誰かを頼ればよかったのにってか⁉


親も姉妹も何もしませんよ、見舞いにも来なかった。


そう、私は一人で産んで、一人で育てた…が正解。


私は母親で、逃げ道なんかないし、逃げるわけにはいかないからだ。


私の代わりは、文字通りいないのである。


そして、息子を連れて都内の病院へ転院して、ようやくストーマ外来へ通院することができ、それまで孤軍奮闘した。


田舎では、まだまだストーマ自体が珍しく、取り扱う病院も少ないため、通院も大学病院まで、電車とバスを乗り継いで片道3時間ほどかかる。


だから、ウチの親も姉たちも「育てられない」といい、無理だと最初から放棄して、手伝う事さえしなかった。


そんな私が24時間365日、慣れない介護と育児で疲弊しても、誰が助けてくれるというのか。


その上、全結腸型ヒルシュっ子は、年に片手で数えるぐらいしかいない、特殊な難病である。


育てるにしても。ヒルシュっ子の情報はほとんどない。


八方塞で、孤軍奮闘する以外、私には方法がなかったよ。


やがて私は睡眠障害になり、軽度の鬱になった。




誰が好き好んで、病障がい児を産むというのか。


育てるのが難しい、大変だからと言って、投げ出す親がいるのだろうか。


まあ、いるかもしれないが、少なくとも私は小さな命を投げ出せなかったよ。


だから、鬱になろうが不定愁訴と診断されようが、自己犠牲を強いてでも子供と向き合った。


でもね、トドメは子の発達障害という診断だったよ。


小学校へ入学した息子は、健常児のクラスに通いつつ、支援学級に通級した。


その年の夏休み、私は息子にWisc検査を受けさせ、秋には軽度知的障害の認定を受けた。


この時、ようやく肩の荷が下りたような、一つのヤマを越えた気がした。


でもね、戦いは終わりじゃなかったんだよ。