ぱせりのお部屋

日常の愚痴や感じたこと、何気なく思ったことなどを徒然に書き込みます。

月の裏側とカトリック教会

バチカン市国には、月のオブジェがあるという。


ちなみに、ウチの伯父はバチカンへ行ったことがあるらしく、敬虔な?カトリック信者だった。


その伯父と聖書の話をしたことがあるんだが、正直言って、私は胡散くさいとしか思っていない。


うん、信者じゃないし、まともに読んだこともないし、読みたくもないので。


ただ、中高生の頃、五島勉のノストラダムスの大予言とかが流行ったので、聖書の予言とか聖痕とか、ファティマ第三の予言とかは、五島勉の本を読んだので知っている。


そんな私は、キリスト教を信じていないし、当時読んだ本の中に「キリストは日本で死んだ」というのがあって、はるか昔にイエスキリストらしき人物(実在はしない)がいて、祖国を追われて、日本までやってきた…という事だろうか。


そもそもキリスト教は、イエス自身が起こした宗教ではなく、死後に弟子たちによってつくられたものだと思うので、「胡散くさい」と思っている。


そのイエスの身内というか、子孫か一族が日本へ来た痕跡が、青森県の戸来村に残されている…が本当じゃないかと思う。


だとしたら、イエス自身はキリスト教を信仰してはいないと思う。


なんてことを、敬虔なるカトリック信者の伯父に言ったもんだから、怒らせ機嫌を損ねた自覚はある。


さて、難しいことはさておき、イエス自身はイスラム教徒だったと思うので、彼等の先祖はエジプト人だ。


モーゼが、ユダヤの民を引き連れてエジプトを脱出し、数十年も放浪し、カナンの地へたどり着く話が伝えられている。


そのモーゼは何者かというと、エジプトの王族らしいので、彼等の祖国はエジプトである。


そしてイスラエルという国が出来て、ユダヤ教が生まれたわけだけど、イエスはその子孫なのである。


で、世界最小にして最強の国、公国であるバチカン市国は、キリスト教の聖地で本部だ。


それは、中高の社会科で習うので、割愛にするが、聖書ってある意味歴史書で預言書だよね。


予言じゃなくて預言ね。


その預言を遂行するのが、あのバチカンだと思っているのだが、そこにあるという月のオブジェが気になった。


月と言えば…日本ではかぐや姫である。


彼女は月の住人で、月の世界へ帰っていく。


あと、藤川桂介が書いたファンタジー小説「宇宙皇子」というのがあり、月の世界を描くシーンが出てくる。


つまるところ、月には何かがいるというお話で、地上の人間を下界と呼んでいるらしい。


まあ、早い話が、あちらがわ(死後の世界)だそうで、神々と仏の世界なのだという。


なるほど、人間を創った神々がいるのか。


だから月のオブジェか。


で、もうすぐその月からの使者?が、地上にやってくるらしい。


ふーん…何しにやってくるんだろう⁉


地上の人間は、彼等にとっては何⁉


聖書にある通り、労働力としての奴隷かな。


謎だね。




桃太郎と言えば…

そう、きび団子でも有名な岡山県ですが、桃太郎のモデルと言われるのが、記紀にも登場する孝霊天皇の皇子であるキビツヒコです。


実は、キビツヒコには双子(異母弟?)の兄弟がいて、その名をワカタケヒコと言います。


ちなみに、キビツヒコは第10代崇神天皇の御代では、四道将軍の一人と言われていますが、奈良県(田原本町)出身となっていて、言い伝えでは、温羅という鬼を退治したことから、桃太郎のモデルとされています。


この温羅という鬼は、実は朝鮮半島からの渡来人で、身長が4mもあったと言われており、製鉄技術などを伝えたとされているので、秦一族の末裔ではないかとも言われています。


まあ、実際は2m超ぐらいの大男で、たたら製鉄を生業にしていたのなら、鬼のような強面と赤い顔をして、筋肉質な体格だったと思われる。


はてさて、奈良県と言えば葛城山の役小角で、前鬼後鬼が有名ですが、その子孫は今も生きています。


そう、修験道の開祖である役小角の弟子で、後に夫婦になって五人の子を産んだそうです。


そんな話を思い浮かべ、温羅という鬼を退治したというキビツヒコ(桃太郎)って、何だったんだろうと思いました。


また、崇神天皇は、熊野三山である那智大社へ赴き、霊術を会得したと伝えられていますが、熊野と言えばヤタガラスとカラス天狗です。


天狗の面表は…鬼によく似ているのではないでしょうか。


そして、カラス天狗というと京都の鞍馬を連想しますが、鞍馬で修業をし、霊氣を現代に復活させた臼井ミカオ氏は、その秘術を大本教の出口王仁三郎に伝えたとされています。


また、鞍馬というと牛若丸と弁慶ですが、その弁慶坊は熊野(田辺市)の生まれとも伝えられ、源平合戦で活躍する熊野水軍は、記紀にも登場します。


そう、水軍と言えば村上水軍も連想するのですが、彼等は同族ですよね。


しかも遥か縄文の頃からの海人で、世界中の海を渡り歩いた海洋民族の子孫です。


その彼等の拠点は瀬戸内海で、四国の阿波ですね。


紀国和歌山と、紀伊水道の海を挟んで向かい側ですが、再び熊野古道が出てきます。


その紀国には、神武東征の舞台で、名草戸畔(ナクサトベ)という女首長(女王)の話があるのですが、彼女もまた討伐され、頭と手足と胴体にそれぞれ分けて葬られる。


そう、温羅もまた討伐された後、頭と手足と胴体に分け、葬られています。


おやおや、なんだかそっくりで、よく似た話じゃないですか。


しかも祀られた神社には、石工の痕跡と岩屋に巨石文明の痕跡等々があるのです。


そんなトコ迄そっくりで、それらは縄文文明の痕跡ですよね。


と、彼是考察していくと…あれ⁉


温羅という鬼は、簒奪者ではなく、はるか昔に世界中に散ったとされる縄文人(海洋民族)の末裔ではないのだろうか。


では、桃太郎(キビツヒコ)は、あとからこの国の支配権を握った、簒奪者側なのではないか⁉


そう結論づいた。


この国を一つにまとめ、最初の天皇となったハツクニシラススメラミコトという名が示す通り、本当の意味での天皇なのだと思う。


だから、後世に伝えるとき、勝者側に都合よく書き換えられた…という事かもしれない。


従わぬ者たちを鬼と呼び、土蜘蛛族といい、物の怪の如く扱って、首長たちは討伐された。


と、私は考察する。






年の瀬に…還暦と年女

今年ももう終わりですが、ウチの息子は年男で24歳になりました。


そして、年が明ければ、ウチの三女姉は年女で還暦を迎えます。


そう、上二人はすでに還暦婆でございます。


長女姉の息子は、33歳でして、小学生の頃、うちの子が生まれた時を最後に、会ったことがございません。


いえね、意図的に遭わないように、婆にされてたわけですが…


もとより、仲が良いわけではないので、それは一向にかまわないのですが、甥っ子の小中高と進学するたびに、お祝いは送っていたので、完全無視されることは想定内ですが、本当に人って、いくつになっても変わりませんよね。


たとえ年齢は還暦を迎えようが、中身は二十歳の頃のまま。


よく婆が、「還暦になったら、可愛いおばあちゃんになる」と豪語していたのですが、無理デンス🤣🤣🤣


性格悪くて我がままで、どうしようもない意地悪婆が、還暦になったからと言って良い人になるわけがない。


同じく長女も三女も、この婆にそっくりなのですよ。


無理デンス😭


私自身もそうで、振り返っても30代や40代の頃と気持ちの上では変わらないのです。


そう、肉体的には老化してますし、いろいろと衰えてますが、還暦を間近に控えても心は変わりません。


私は、結婚が33歳と遅かったので、たぶん感覚が30代で止まってる気がします。


子育てで時間が一気に飛んじゃって、気が付いたら50代になってました。


そんな感じなので、老後はどういう暮らしになるのか、なんも考えていません。


でも、これが年をとるという事なのですね。


身体の不調は、40代の頃がピークでした。


今は少し落ち着いたかな。


でも、もう元に戻れる気はしませんので、現状維持ですね。


これが老いるってことか…と、しみじみ実感しています。


今は、もう少しだけ生きていたいので、現状維持に努め、楽しみを見つけようと思います。


何を始めよう⁉


まあ、出来ることからかな(笑)





kannrekihttps://isetan.mistore.jp/moodmarkgift/18632

瓊瓊杵尊って何奴⁉

ニニギノミコトは、天孫の一柱で、天照大神の孫とされる人物。


葦原中国を治めよと命ぜられ、先にアメノワカヒコとアメノホヒの二人が天下り、その後、タケミカヅチが平定し、そこへ天下ったのが瓊瓊杵尊と伝えられている。


まあ、葦原中国ってどこやねん…って普通に思う。


諸説あるらしいが、私は最近よく耳にする阿波国を有力視している。


ヘンな話、畿内に都をおったてるなら、大陸寄りにある九州だけじゃなく、四国にも何かあると思うからだ。


古事記によると、タケミカヅチが大国主より、譲り受けたとされるのが葦原中国だからだ。


じゃあ、出雲の国譲りは、本当はどこで合った話なのか…と考えた時、日本海側ではイメージがわいてこないし、そもそも出雲大社は、本来は京都亀岡にある大社の事を指すので、島根の出雲(杵築大社)ではないことがわかる。


それは、20代の頃に京都在住だったので、聞いて知っていた。


では、記紀に登場するイズモはどこにある⁉


そう、なぜか橿原神宮を始めとする、元宮が集中するのが徳島(阿波)だった。


それを知ったのは、熊野古道が世界遺産に登録されたころで、神武東征物語の舞台は…九州の日向からではなく、阿波から始まったのかと。


でも、まだよくわからないので、世間が注目し始めれば、謎が解けると思い、時期を待つことにした。


そんな時、忘れかけていた徐福伝説が、この物語に関係していると知る。


まさかの徐福は、瓊瓊杵尊かもしれない。


はあ、一回目の来日で、イズモを乗っ取ったやつね。


でも、一回目は失敗に終わって、二度三度と挑戦し、最後は自分の孫にその遺志を継がせる。


だから、三回も来日して、最後はこの国で骨を埋めた。


なるほど、それで徐福の墓とされるものが、新宮市の徐福公園にあるのか。


たぶん、その墓と言われるものって、徐福御一行様の一部が住み着いて、後世に伝わったものだと思うので、一族の誰かだとは思う。


そりゃ、三回も来てりゃ、一族の人は彼方此方に分散しただろうし、長老とか族長級の誰かいたと思うので、徐福の痕跡を残したんだろうね。


それが、いわゆる秦氏なんだろう。


さて、日本と韓国を行ったり来たりした、歴史上の有名人がいるが、その人物がまさかの徐福だという人がいる。


まあ、確かに言われてみれば、そうとも取れるんだが…その人物というか、神様って…天皇家の祖神と深くかかわる。


そう、記紀においては、三貴神の一柱で素戔嗚尊だというのである。


へえ、確かに一人だけ毛色が異なるし、むりくり三貴神に入れてるっぽいので、兄弟神とは考えにくいなあとは思っていた。


しかも月読命と同一視されることも多いし、謎が多い。


それに月と太陽は対になるが、星はまた別の信仰だ。


星と言えば、妙見信仰で、北斗星(太一)天帝を意味する。


そこら辺を探ると、ごちゃごちゃとややこしいので割愛にして言えば…道教という事だ。


その思想を持ち込んだのは秦氏で…やっぱり徐福御一行様となる。


そして、その痕跡があるのが、紀国一宮の一つ伊太祁曽神社だ。


めぐり巡って、伊太祁曽神社に辿り着いた。


ココの由緒書きにも、きっちりと韓国から来て、植樹したよとあるんだよね。


しかも、元々鎮座していたのは、名草戸畔の治める名草邑の中だったという。


名草戸畔というのは女首長で、神武東征で討伐される人物だ。


なぜ、狭野(神武天皇)によって討伐された、名草邑に祀られているのだろうか…と不思議に思うが、祀られている祭神は素戔嗚尊の子、五十猛命(大年神)だという。


大年神(イソタケル)って、確か大国主命の孫だった気がするのだが、その子が天村雲というらしい。


この村雲が、橿原宮で即位した神武天皇その人だという。


確かにそうなると、スサノオが徐福であれば、その孫にあたる人物が初代天皇という事になる。


そりゃ、記紀には記載できませんなあ。


でも、個人的に調べていくと…五十猛命が大年神なら、村雲まで繋がるんだよなあ。


ちなみに、伊太祁曽神社は、紀ノ川の上流にある山東に移設されている。


そう、山東って中国にも同じ地名があるよね。


あと、伊太祁曽神社があった場所には、日前・国懸神宮が置かれた。


二社が祀られる珍しい神社だが、御神体は鏡で、八咫鏡の前に作られたものらしい。


ここ重要で、おまけに元伊勢の一つに数えられるのだ。


今は違うけど、ココの宮司は南方といい、タケミナカタの子孫と言われている。


タケミナカタと言えば、長野の諏訪大社だ。


長野の諏訪大社も三重の伊勢神宮とかかわりが深いが、どちらも古代ユダヤと関係あると言われているよね。


やっぱ、徐福か…と、ため息が出た。

徐福と神武東征

昔、30年程前になるが、友人と一緒にドライブに出かけて、徐福公園に立ち寄ったかとがある。


徐福公園があることは、十代の頃から知っていたが、あまり機会がなくて行ったことがなかった。


この時も熊野三山へ足を延ばし、いつも通りに本宮から順番に回っていて、お昼を少し回った時間に新宮市内で昼食をとることにした。


適当にファミレスが目に付いたので、国道沿いにあるお店に入ったが、時間があるので食後に、なぜか思い付きで「行ってみようか」という事になる。


近くには、浮嶋の森もあるので、一応どっちに行くか話し合ったところ、友人も浮島の森は行ったことがあるというので、「じゃあ徐福公園へ、話のネタに行ってみよう」という事になった。


徐福とは、言い伝えによると今から2200年ほど昔、秦の時代に実在したと言われる人物で、秦の始皇帝に命ぜられ、不老不死の仙薬を探し求め、日本へやってきたとされる人物だ。


その仙薬(霊薬?)は、須弥山という山に生える木になる実で、その木が橘という木だとか、目薬の木だとか伝えられているらしい。


その霊薬の木が生えている場所、それが浮島の森と言い伝えられている。


嘘か本当かはわからないが、今では観光地の一つになっていて、お土産物としてお茶が売られているが、別に美味しくはない。


だから、すでに知っている浮島の森よりは、徐福公園の方が話のネタになりそうという事で、ちょっと寄り道してみた。


なんとなく、中国っぽい楼門とか、徐福をイメージした像があって、チャイナ感濃いめなんだが、横浜の中華街や長崎とか神戸を想像すると…かなりちゃっちい。


無理に寄せなくても…という感想が...orz


というわけで、お土産物に饅頭を買って帰った。


ちなみに徐福御一行様は、童男童女を含む3千人ほどが、この地に移り住んだと伝えられているが、徐福伝説って、北九州から西日本一帯にあるよね。


何奴⁉…て、感じするんだけど、なぜか記紀には登場しない。


でも、なんか重要ポジション的な気がするんだけど、来日すること三回も一族を引き連れ移住しているという。


じゃあ、三千人どころか一万人ほど来てるんじゃね⁉


そう思ったら、かなりの人数なので、民族の大移住やんと思った。


一回につき数千人単位だと、船団で来てたってことで、記紀に記録が残ってないことに疑問が残る。


ただ、日本書紀の編纂は、視点が韓国らしいので、日本国内の事情は不明な点が多くなるというので、私は記紀より風土記などの国内の書物の方に重点を置きたい。


で、もう一つ思い浮かぶのは、この徐福伝承の地って、神武東征の物語の舞台だ。


なんだか無関係な気がしないし、そもそも神武って実在しないと言われているし、高校生の頃、男子から聞いた話じゃ、神武東征は、別の人物の物語だろうという事、徐福がそうじゃないかと思われる等々、聞いたことがあったので、徐福と被ってるなあとは思った。


がしかし、仮に徐福が、九州の日向から来たとされる彦火火出見(狭野)だとしたら、三回も行き来しているので、他の人物にも被っていそうだなと思う。


では、他の人物って…誰⁉


其処が長年の謎だった。