ぱせりのお部屋

日常の愚痴や感じたこと、何気なく思ったことなどを徒然に書き込みます。

最近よく聞く噂?話

最近、巷で耳にする話で、気になるのは癌。


我が家は、婆が60代を境に繰り返し子宮頸癌を患い、70代で子宮全摘を行った。


婆は、14歳の頃に長崎にて、被爆している。


もちろん、悪運強く無傷で済んでいるが、PTSDになった。


そのため、扇風機の微風はおろか、車の助手席に座っても窓を開ける事が出来ない。


理由は、爆風で玄関から奥の間まで飛ばされ、擦り傷だらけになったそうで、玄関の外にいた友人二人は大火傷を負い、命からがら自宅へ逃げ帰り、その時の出来事が脳裏に焼き付いて、トラウマになったという。


それから15年後に長女が生まれ、20年目に私が誕生する。


本人曰く、ずっと健康だったそうで、子どもは毎年一人ずつ産んでいる。


さて、そんな婆も年には勝てず、60代になって癌を患った。


以降、10年の間に2回手術を受けた。


まあ、被爆者手帳を持っているので、癌に関しての治療費は公費となる。


つまり、私はその婆から生まれているので、被爆者二世というわけだが、手帳を持っていないので、仮に癌になっても治療費は出ない。


ちなみに、二世や三世における発病率は高くなるというが、一般人と比べ、遺伝子に欠陥があるのは仕方がないという事だろうか。




さて、そんな昨今の電磁波におけるさまざまな事象と、💉による後遺障害などで、癌の発症率が、年代性別に関係なく上がっているという。


例の💉については、様々な噂が飛び交っているが、内容物については一切非公開という話だ。


いやいや、何とも恐ろしいではないか。


ろくに治験もされず、ろくな観察データもなく、短期間で認証された💉には、何が入っているかわからない。


そんなモノを嬉々として打ちまくる…怖すぎて、背筋が凍った。


一度、立ち止まって冷静に考えて欲しい。


日本人は、ファクターXなるものがあり、ほぼ感染しなかった。


だが、💉を撃ちまくった結果、感染爆発が起こった。


そして今、巷では様々な体調不良を訴える人であふれている。


その中で目立つものが癌だ。


しかも発見時には、すでに末期に近いステージⅣだというのだから驚く。


そして、女性に多いのが子宮頸癌と乳癌である。


癌細胞が暴走し、ターボ癌になるというが、何が原因か…心当たりある⁉


12年前、東日本大震災で、原発の原子炉が爆発したけれど、それ以降何もないよね。


あったとすれば…💉しかない。


でも、誰もそんな話はしないし、巷で聞こえるのは「○○癌になりました」という申告だ。


「貴方も⁉私も、実は…」という、噂話である。


そんなの今まであっただろうか。


少なくとも私は聞いたことがない。


だから一度、立ち止まってゆっくり考えようよ。


大事なことだから。






彼岸花の群生地



すぐ近くにある巾着田というところには、毎年曼殊沙華が咲きます。


先週から行楽日和が続き、週末の雨を除けば、高麗駅から徒歩15分ほどなので、飯能駅から路線バスも出ており、行楽客が押し寄せてきてました。


まあ、この光景も4年ぶりじゃないですかね。


高齢者の団体さんは、路線バスを利用される方が多く、家族連れの方は、自家用車利用が多いようです。


また、コンビニも喫茶店もあるので、この時期と春先は賑わいます。


ただ、コロナ禍が始まった時は、咲き誇る罪のない彼岸花をすべて刈り取った光景は、とても残酷に目に映りました。


花は愛でるものですが、人間の都合で刈り取られる。


酷い話だな…と思いつつ、曼殊沙華は球根で株分けすると聞き、あの見事なヒガンバナは、実はクローンなのだと知り、とても驚いたものです。


そういえば、子どもの頃、近所の農家のお年寄りが、「この花に触ったらあかんよ、毒があるさかい」と言われ、株を分けて植え、花が咲いたら、また株を分けて何年もかけて増やすのだと、そう教えてもらったことを思い出した。


毒があるのは、花じゃなくて球根の方で、実は畑を荒らす害獣(モグラ)駆除のためだと聞いたとき、『嗚呼、だから墓地の周りに咲いてるのをよく見るんだ』と分かった。


あれから二十数年が経ち、この街にやってきて、ヒガンバナの群生地があると知り、子どもの頃の遠い記憶を思い出す。


毎年、この季節が巡ってくると、そんな子どもの頃の何気ない思い出を思い出す。


故郷は、遠くにあって思うもの…なんて、フレーズが頭に浮かぶ。


赤い彼岸花、群生している光景は見事で、とても綺麗ですもんね。


ただ、子どもの頃に臨死体験したことがあって、夢の中で見た光景に似ているな…と、ふと思うことがある。


あの光景は、赤だけじゃなく、黄色や白も混ざってたんだけどね。


あと、季節感なくて、コスモスやヒマワリなど、様々な草花が沢山咲いていたんだけど。


たぶん、あの世とこの世のはざまには、こんなきれいな花畑があるんだと思う。


ちょうどお彼岸の季節だしね、連想しちゃいます。




さて、そんなヒガンバナが群生する日高市には、高麗神社という有名な神社がある。


ここも初詣は、めちゃめちゃ混むんですよねえ。


二回ほど参拝しましたが、あまりの人の多さに、もう足が向きません。


平素はね、観光客がチラホラ参拝する程度で、静かなところです。


その高麗神社の説明は、有名なので割愛にしますが、彼等御一行様は、この武蔵野の地に移り住んだと言われています。


千四百年前と言えば、奈良時代ですよね。


平城京は、710~784年までの74年間、奈良に都が遷都された期間の事ですが、天智天皇の治世において、666年に使節団一行の中に玄武若光という名があるそうで、同一人物かどうかわからないが、当時の高句麗王の子息として、日本へ帰化して高麗若光という豪族になったとされているという。


へえ、あまり歴史は得意じゃないんだが、天智天皇と言えば大化の改新(乙巳の変)で、都を近江(淡海?)へ移したと言われている人物だ。


まあ、あまりにも有名な日本史で習うクーデターなので、誰でも知っていると思う。


この時代、頻繁に都をあちこちに移しているので、ぼんやりとしか記憶にないのだが、大和朝廷に使えた豪族の一人が、この武蔵野一帯に移り住んだ高麗若光という人物なわけで、そんな大昔から住んでいたら、その彼等の子孫は土着民じゃんね。


今の日本人は、縄文と弥生のDNAを持っているというし、弥生人は渡来人だもんね。


みんな何かとの混血なのよ。


で、その乙巳の変の裏舞台に名を馳せるのが、有間皇子っていう人物がいて、罪を着せられて死罪になる。


この辺りの話を子供の頃、何度も聞かされて、割と知ってたりする。


ただ、当時の都がどこにあったのか、何処を目指して有間皇子(孝徳天皇の皇子)は連行されたのか、なぜ道中にある海南市辺りで埋葬されたのか…今だ謎が多い。


あそこから見渡すと、晴れた日に見えるのは淡路島と徳島だ。


目と鼻の先に淡路島が見える。


だって、飛鳥宮が奈良だったら、埋葬された地というのが辻褄が合わない。


望郷の念という言葉があるように、無念な死を遂げ故郷思う時、たとえ見えなくてもその方角に埋葬しない⁉


紀ノ川の上流を遡れば、奈良盆地があるのよ。


故郷でもなく、馴染みのある紀州崎の湯でもない、海南市の辺りというのが解せない。


そもそも岩代の峠の松の木の辺りで死刑になり、切られた首はまた来た道を戻って、崎の湯で湯治する斉明天皇?だっけ、に献上されている。


岩代から海南市の距離、白浜へ戻るよりあるのよね。


ちなみに、当時は陸路より海路を使うという。


そして岩代から白浜は、田辺湾を挟んで見える位置にあるので、わざわざ海南市辺りに運ぶ必要があったのかな。


中途半端すぎて謎。


でも、飛鳥宮が奈良じゃなく、海を挟んだ向かい側だったら…話は別だろう。


わざわざ運んできて、埋葬する意味あるよね。


じゃあ、時の朝廷は、本当はどこにあったのか。


大和って、本当は大倭じゃないの⁉


で、大倭は阿波にあったりしてね、推測だけど。


その大倭に使えた高麗若光は、帰化人か。


へへ、なんてね、試行錯誤してみる。


たぶん、大和政権のあった都が、奈良にあったという思い込みが、そもそも違うのだと思うよ。


そう、何かによって、誤認させられている。


だってね、和歌山には吉備って地名もあるのよ。


平成の大合併で消えた町の名前だけど、他にも那賀郡とか、そっくりな地名が鏡のように存在する。


そもそも吉野川って名前を聞いて、関西人は奈良を思い浮かべるけど、紀ノ川の向かいにある四国を流れる川の名前だからね。


最初にこの川の存在を知るのは、小学生の社会科で、次が中一の地理の時間だ。


そっくりな地名のわけは、大陸から人が移動し、西から東へ移り住んだ名残と教わる。


だったら、歴史に登場する地名や人物の名前って、無関係じゃないよね。


ってことで、何気に調べた橿原神宮の元宮って、何処にあるのかなと思った。


同じ理由で、本物の出雲大社と呼ばれたお社はどこ⁉みたいな理由から、Googleで調べて納得した。


木の国和歌山の紀伊は、伊予の国の伊と紀氏家の紀だったよ。


まあ、そんな感じで辿っていったら、四国って重要じゃんって思った。


で、日本の始まりの都は、奈良じゃなかったね。


あとは、日前・国懸神社の謎、もう少し追っかけてみたい。

塩、塩…塩対応される日々

とりあえず、普通クラスへ二学年も進級し、4月から支援級へ算数と国語の通級が始まった。


この頃、支援学級は三クラスあり、知的・情緒クラスと肢体不自由の生徒が、十数人が通っていて、市内でも特別支援教育支援員が充実した学校だったので、通級すること自体は可能だったし、十分な対応だったと言える。


これは、学校長の意向が大きく、理解と支援に力を入れていたので、有資格者の教職員が数名在籍されていた。


当時でも、有資格者の教員確保は難しく、複数人在籍しているというのは、近隣の市町村を含め、市内にある小学校でも珍しい。


もちろん、就学前相談へ行った時、相談員の中に学校長がいて、受け入れてくれるというので、地元の小学校を選んだわけだが…対応してもらえたのは、学校長がいた二年までだったのである。


そう、三年へ進級するとき、学校長が定年退職のため、新たに入れ替わったので、支援クラスは知的・情緒の一クラスだけになり、支援員はすべて他校へ配置換えで移動し、支援クラスの担任は、素人で退職間近の高齢の女教師になった。


なのに、ウチの子は強制的に支援クラスに編入になり、「通級は認めない。いやなら、手帳モチは支援学校へ転校するように」と、新しく来た校長から厳しく言明される。


いやいや、支援学校の判断は「地元の小学校へ」という、スクールカウンセラーの意見で決まってんだけど、なぜ校長が変わったとたんに、こうも極端に対応が変わる⁉


そもそも支援員の先生たちは、通級させる方が良いといい、息子に一番適切な判断だと、そういって受け入れてくれたのに、なぜ支援員を一人も残さず移動させた⁉


しかも校長の指示は、支援クラスの廃止が最終的な意向だといい、生徒は増やさないので支援員は配置しない決定という。


そう、十数人いた生徒は、ほんの片手で数えられるほどに減り、6年生が一人、三年生はウチの子ともう一人、一個下が男女一人ずつの5人になったため、補助の教員もつかないという有様なので、支援とは名ばかりになる。


なんだ、この極端な劣悪な環境は‼💢💢💢


と、思わず叫んでしまうような変わりようで、頭を抱える事態へ突入する。


えっ、これは嫌がらせですか⁉


何の試練ですかね。


ウチの小学校、3年前に市内に新たな小学校が開校し、それまで一学年10クラスあったのが、6~8クラスになった元マンモス校ですよ。


ちなみに、ウチの子が入学する前、学級崩壊や学年崩壊が巷で起きていたそうで、市内の小中学校はどこも厳戒態勢だったんです。


今は、順番に他所の学校や近隣の小中学校で起きているらしく、ようやく落ち着いた環境で、小学校ライフを送れると思ったのに…今度は、学校長による塩対応ですか。


しかもうちらの中高生の頃に始まった、保健室登校とか今は廃止されていて、不登校児のための別教室の役割があった支援クラスの臨時教室も廃止された。


えっ、もしかして…これって、問題児含む発達障害児の締め出しってことですか⁉


すっげーワンマンな校長というイメージなんですが、不登校や学級崩壊は、生徒側の問題にされてるの⁉


ええっ、それって酷くない⁉


はあ、だから障害児親は甘えを捨てろと、支援員のいる支援クラスを廃止したと、そいうことですか。


なるほど、必要な支援は、我々の甘えという考えですね。


生徒の困り感は、生き難さは甘えという、それが校長たち教員の共通の考えと聞かされた。


発達障害をすべてひとくくりにして、問題児は教室から排除するという事か。


これ、教員側にしてみれば、自分たち教職員を守る校長ですが、生徒児童側からすると酷い扱いで塩対応ってことです。


自分たちの居場所を奪われるってことなので、大人は、教職員は、生徒の立場と権利を考慮していないって意味になる。


ここから、私は学校側と衝突するようになった。


本当、嫌な記憶がよみがえる。


私は、母子寮育ちで、教員の偏見と差別と、中高生の頃戦ったことがある。


だから、元々教職員が大っ嫌いなのである。


そう、話の分かる数少ない教員は別として、差別と偏見には忌避感が強い。


いや、忌避感というより憎しみに近い感情がある。


今も昔も、この理不尽な扱いは許せないし、子どもに何の罪があるというのか。


私は、校長の態度に腹が立って仕方がなかった。

新たな問題と障害認定

ウチの子が全結腸型のヒルシュっ子だからなのか、それとも7ヶ月から一歳8ヶ月迄の入院生活で、生命維持のため成長が一時的に止まっていたせいなのか、はたまた別の要因で成長が阻害されたせいかわからないが、兎に角、人よりもゆっくりのんびりしか成長が出来ない様子。


でも、コミュニケーションは取れないわけじゃなく、授業中もきちんと聞いてられるので、とりあえず教室に入れるようだ。


だが、授業についていけないし、放っとかれているようで、どうも連絡帳に持ち物や宿題等の事が書けていないようで、入学して早一ヶ月で頭を抱えた。


このままではまずいと思い、WISC検査を受けるため、新設された大学病院の発達障害専門の外来を受診することにした。


ここは、新設されたばかりなので、予約もすぐに取れ、さっそく夏休みに入って初日に受診ができた。


結果、ほぼ中度に近い軽度知的障害と診断された。


今の環境では、支援級への通級を訴えても難しく、まずは手帳申請へと動き始める。


そう、担任と交渉するには、必要な手続きで、すぐさま児相に連絡を取り、認定への手続きに入る。


回りくどい手続きと審査を受けて、長々と時間をかけて11月に結果が出た。


大学病院でWISCを受けてから、およそ5ヶ月がかかっている。


結果、2学年へ進級する際、支援級に通級することが決まった。


なんだろ、ちゃんと先回りして動いているのだが、手続きに時間をとられるので、なかなか思うように先に進まない。


ヒルシュの方は落ち着き、幼稚園の年長からこっちは、一度だけ入院したが、以降は投薬も何もなく済んでいる。


おまけに体格もぐんぐんと伸び始め、身長が少しずつ追いつき始めていた。


そう、身体の成長とともに、発語もかなり伸び、周囲にも言葉が通じるようになっている。


でも、担任からは手厳しい反応が返ってくるので、これがなかなかきつくてしんどい。


いやね、私に文句を言われても…児相の方で審査やら手続きに時間がかかり、夏休み中に手を打っても、結果が出るのに11月までかかったんだよ。


だってさ、先に大学病院で検査受け、診断がないと児相は受け付けてくれないじゃん。


回りくどい手順を踏んで、一つずつ積み上げていかないと、何をどうするか手を出せない。


ただ「ウチの子、障害があるっぽいので、支援学校へ入れてください」と言って、入れてもらえるほど甘くないよね。


そんな簡単に入れてもらえるなら、誰も苦労しませんって。


もう、病院もいくつも巡ってね、結果を積み重ね、必要な支援を探すのに、時間と労力使えるほど、ヒルシュっ子の日常は甘くないのよ。


まず、何を優先すべきか、子によって違うじゃん。


ウチの場合、先にヒルシュがあって、発達障害はおまけみたいな、副反応的なものなのよ。


同時進行できりゃやってますよ。


結果、療育病院を受診し、診断出て訓練始めた時は、幼稚園も年長へ進級する頃だったわけ。


もちろん、気がかりで受診決めたのは、幼稚園入園前になるけれど、予約して受診するのに半年以上かかり、診断出るのにさらに半年以上経ってからで、訓練開始が年長に進級する直前でした。


ね、入園前は生きるか死ぬかの状況だったので、発達障害があるかないかとか、夜泣きが酷くててんかんがあるかも…と気になって、2歳の時に脳波の検査受けてるけれど、それも申し込みから数ヶ月待たされてんのよ。


結果、異状がなかったんだけどね。


夜泣きも3歳を迎える頃には、自然と治まったし、幼稚園に入園するとまとめて寝るようになりました。


もう、本当に母子できつかったわ。


ヒルシュっ子の手記もろくになくてね、今みたいにブログもほとんどなかったので、何をどうすればいいかわからなくて、手探りでいろいろやった。


たぶん、一番良かったのは、脱水症を予防するのに飲ませていた、幼児用のイオン水だと思う。


あれが一番負担なく、飲ませられるものだったので、食事以外で気を付けたことに一つだった。


今じゃ、ヒルシュっ子には投薬治療の中に、塩化ナトリウムがあるようだが、ウチの子の時にはなかった知識だ。


人間には、塩分がとにかく大事なんだよ。


汗をかくとしょっぱいよね、点滴の中身は入っているんだろうけど、死にはしないが、入院の度に絶食するので激やせするのよ。


で、栄養失調でさらに下痢が止まらず、体内の水分がもってかれるという悪循環。


だから、それを毎回見せられるので、自宅へ連れ帰ったら、水分補給にクリにミール(経腸栄養剤)以外で幼児用イオン水をガッツリ飲ませた。


なんとなく、直感で大事なことだと思ったので、本人は満足すればとにかくよく寝た。


日中は、散歩がてらに買い物へ連れ出し、気分転換したので夜もよく寝た。


私はへとへとだったけど、24時間365日気合い入れて立ち向かったよ。


あと、小学生になる頃、大腸がないので、鉄分が摂れてないようで、サプリメントで補給したよ。


たぶん、鉄分だけじゃなく亜鉛とが葉酸も必要だったと思う。


今でもたまに、下痢が続くと鉄分不足になる。


ヒルシュっ子の場合、食べ物だけでは、吸収が十分でないのだろうね。


そんなわけで、小学生になったらなったで、別の問題が浮上する。


発達障害って、どう立ち向かうのが正解⁉


教師は、敵か味方か⁉


学校は、どう向き合うのが正解か。


これまた孤軍奮闘ですよ。


ただ、診断結果を見る限り、適切な支援と対応が受けられれば、まだ可能性はあったんだよ。


でも、希望は学校の都合で断ち切られた。




こんな悩みとか、育児の愚痴とか、聞いてくれる友達はいるのかって⁉


いましたよ、田舎の幼馴染とか友人知人です。


年中の頃に帰省して以降、度々帰省するようになりました。


また、GWやシルバーウィークには、伊豆の温泉へ、一泊でお泊りに出かけるようになりました。


息子は、遠出と車でのお出かけに超ご機嫌で、とかく車とナビが大好きで大はしゃぎ。


その延長で、夏休みや冬休みには、一週間から一ヶ月程帰省しました。


その間、息子は体調も崩さず、元気でしたね。


そして、夏休みや冬休みには映画館へ、アニメを見に連れていくと、大喜びでした。


夏休みはポケモン、冬休みは仮面ライダー、GWにはコナンを観に連れて行ってましたので、よくしゃべるようになったのです。


なのに…学校は、めっちゃ塩対応でした。

排せつ訓練と就学準備

言語の訓練が、先方の都合で中途終了した頃、ある変化が現れた。


実は、ヒルシュっ子の根治術後というのは、自力で排泄が可能になるまで、エネマ液を使ってブジーをして排せつを習慣付かせる。


普通、括約筋といって、肛門を閉める筋肉があるのだが、ここを鍛えることで漏便を予防するが、ヒルシュっ子の場合、肛門で排泄するという経験がないまま育つ。


そのため、ここの締まりが弱い子が多いという。


根治術後、2~3ヶ月入院して、退院後は自宅で私が処置をする。


えっ、旦那は手伝ったりしないのかって⁉


するわけありませんよ。


逆に「クセー、臭せー、💩臭せーな」と連呼し、揶揄って邪魔してきます。


だから、「邪魔」と言って、処置の時は部屋を追い出していました。


言っておきますが、酔っ払いが吐いた吐しゃ物の方が、何倍も臭いしキモいです。


その始末、誰がやってると思ってんねん💢💢💢


お前の方が、よっぽどタチが悪くて、手がかかるんじゃ、ボケー🤬🤬🤬


そんなわけで、幼稚園に行くようになるまでは、布団を敷いた上に防水シートを敷き、大判のバスタオルを敷いて、寝かせた状態でおむつに排泄物を出していたが、おしっこの時にウンチを出せるようになったため、トイレで子供用便座を置いていたが、それをどけて便座の手前に座らせ、私が子供を堕ちないように支え、ブジーで残便が残らないように、仕上げの排便をするようにしたところ、ある日、突然ほぼ自力で排泄が出来るようになった。


そう、排せつが出来るようになったのは、6歳の誕生日が過ぎてからで、根治術から4年の歳月がかかっていた。


この頃は、根治術後の経過観察のみで、隔月の定期受診だったが、「自力で排泄が出来ました」と伝えると、担当医は目を白黒させる。


そう、全結腸型では、あまり見られない現象だったからで、普通は便が漏れるものらしい。


担当医は、「何時も予想の斜め上を行く」と言って笑い、良い意味で褒められる。


いやね、私もいつも試行錯誤してんですよ。


失敗も数多く経験しているが、何事も慎重に対応していることは事実である。


ストーマのケアも、とても気を使って処置をし、皮膚が爛れないように清潔を保っていた。


おかげさまで、ストーマ周辺の皮膚は非常に綺麗で、ほぼ健康なまま維持できたので、手術の痕は、殊の外綺麗に保てている。


そんな苦労もあったのだけど、一番気を使ったのは食事だった。


食べられないものは生もので、消化しにくいものは徹底的に避け、牛乳は使わず豆乳で代用したり、スープやおじやなど、消化しやすいものを多く取り入れた。


そうして、胃腸の負担を極力減らす。


また、飲み物もノンカフェインのお茶と水、イオン水がほとんどで、炭酸やジュース類は避けた。


おかげさまで、今でもそういった類のものは飲まないし、口にしない。


ヒルシュっ子の子育ては、普通とは異なり、なかなか大変なのであるが、私もまだまだ知らない病気や障害がたくさんある。


私にも理解できることと、そうじゃないことがある。


神や仏じゃあるまいし、すべてを受け入れ、理解できたなら苦労はしない。


私には私の、他人には他人の悩みや苦労がある。


だが、それをいちいち口にするかしないか、態度に出るか出ないか、それは個々で違うものと思う。


立場が違えば、見える景色も違うのではないだろうか。


そして、その景色を知るとそうでないのでは、全く違う価値観になると思う。


そんなわけで、以降は年に1~2回の受診になった。




さて、そんな息子は、就学前相談の結果、地元の小学校で健常児クラスに入学が決まった。


でも、明らかに体格からして、同級生より二回りほど小さくて、どう見ても幼稚園児で、これから年中組って感じなのです。


うん、まあ6歳で4歳児程度の発達なので、仕方がないのかもしれませんが、ランドセルが大きくて、ランドセルを背負って登校できるか心配で。


だけど、当の本人は得意満面の笑顔。


とりあえず、授業は大人しく座って聞けるので、大いに不安はあるけれど、様子見することにしました。