ぱせりのお部屋

日常の愚痴や感じたこと、何気なく思ったことなどを徒然に書き込みます。

言語聴覚士と発達障害

ヒルシュのお子様は、多分個人差がかなりあるので、これが正解と言うのはなくて、子の体質にあったものを探すしかなく、よく観察して工夫する以外に育てられないと思う。


また、後で知るのだけど、腸と脳の発育には相互関係にあるようで、全員ではないがウチの子のようなタイプは、脳にも影響が出ることが多いという。


そのため、広汎性発達障害という曖昧な診断結果と、およそ1歳半から2歳程度の発育の遅れがある。


つまり実年齢5歳だが、中身は三歳児程度であるという事だ。


それが療育病院での診断の結果内容だった。


嗚呼…それって、ちょうど長期入院して、発育が止まってた期間と符合するじゃん。


7ヶ月から1歳8ヶ月迄入院し、二歳から数ヶ月入院手術し、その後も入院期間は短くなっているが、入退院を繰り返しているので、ほぼほぼそれが原因ですやん。


入院中は絶食で、二度ほど生命の危機に瀕し、IVHを使用している。


そりゃ、生命維持優先で、成長は停まりますわな。


また、喃語でも私と意思疎通が成立しちゃうので、おまけに鼻からチューブが入っていたりして、声を出すのはおっくうだったと思う。


でも、帰省して意味ある言葉が増えたのは、刺激もあるけど、他人は伝わらないという事を学習したのかもしれない


ただ、本人は言葉を理解しているので、言葉のキャッチボールを返そうと意識している。


だから、もう年長になるが、「(言葉の)訓練しましょう」となった。


訓練の様子を見ていると、質問の回答は間違えないし、正しい言葉(単語)を知っている。


でも、それを自分の言葉にして、発語するまでが出来ず、接続語の~が〇〇で、△△ですという文法にならない。


つまり、言いたいことの単語の羅列なのである。


あとは言い直しをオウム返しするが、身についていないので、言い間違うことが多々ある。


こんな調子で、訓練期間が半年で打ち切られた。


訓練士が寿退社で、最後まで継続されず、替わりの訓練士もいないため途中で終了。


八方ふさがりで、小学校入学を迎えた。




小学校入学前には、就学前検診というのがあり、通知が来ていたので受けることにした。


この時の私は、ほぼ何らかの発達障害があることは、十分理解していたので、健常児クラスに入れるか、支援学級に通うか悩んでいた。


もしもこの時、息子が自分の名前を漢字で書き、読み書きも数字も簡単な足し算引き算が出来なければ、迷わず支援学校を選んだと思うが、幼稚園で手習いをさせていたため、名前を書いて読み書きができ、数字も理解していた。


となると、きちんと教育を受ける事が出来れば、特別支援学校でなくてよいし、問題があるとすれば発語の遅れとヒルシュの事だけである。


こればかりは、理解ある学校というか、受け入れる側が理解してもらわなければ、通うことは困難になる。


私個人としては、学校の良い思い出は一つもなくて、教職員が超苦手で大嫌いだった。


個人的には嫌いでも、偏ったものの見方しかしない相手であっても、付き合っていくしかないのなら、少しでも理解ある学校と環境を選択したい。


そもそも奴等を説得するとか、絶対に不可能なので、話を聞く姿勢があるか否かで、その後の選択が変わる。


わからないことがあれば、調べるか詳しく聞くという、そういう姿勢がない相手程、視野が狭くて高圧的なので、話し合う余地がないと言える。


まず、交渉のテーブルにつかなければ、物事は始まらない。


そう考えて、様子見で就学前相談に申し込んだ。


えっ、旦那はどうしたのかって⁉


最初から、子育てには参加してません…というか、拒否ってるので出来ませんよ。


話し合いのテーブルにつかない相手を、時間をかけて説得するような余力は、産後からずっと続く不定愁訴に、悩み苦しむ私にはありません。


モラハラでDVを繰り返す旦那は、そもそも子育てに参加する気がないのです。


そう、歩み寄る気があるのなら、私が睡眠障害で体調不良になり、追い詰められている間、何かしら策を講じるでしょうが、育児も家事も全部丸投げですからね。


いやもうそんな状況が、何年も続いたら殺意覚えますって。


ウチの子、真夜中に急変することが多くって、通院先の病院まで、一人でどうやって運びますか⁉


吐きまくってる乳幼児を抱えて、ベビーシートに乗せ、車で1時間以上走り続けないと、目指す通院先の病院へたどり着かないわけで、救急車は「タクシーじゃない」と言われて拒否られるんです。


途方に暮れながら、寝不足で朦朧とする頭を無理やり叩き起こし、入院に必要な荷物を抱え、自力で真夜中の国道を一時間半かけて運転していくんです。


えっ、旦那は運転できないのかって⁉


出来ますけど、ほぼ酔っぱらっているので使えませんし、余計な荷物なので邪魔。


毎晩、付き合いだと言って呑んで帰ってくるし、夕飯を作っておいても食べないし、食べないくせして作っておかないと怒るし、酔っ払って帰ってきたら、風呂に夜食にと一通り世話やかした挙句、てめえはさっさと高いびきで寝るんだよ。


子どもや私が、たとえ具合悪くて寝ていても、一向にお構いなしで叩き起こすし、人が39℃近い熱が三日続いても、「怠けてないで飯作れ!」と暴れて暴力を振るう。


これ、殺意覚える案件ですよね⁉


子どもがいて、病弱児で、さらに発達障害迄あったら、我慢するしかないんでしょうが、男ってこんなにお子様で我儘なのかと、本気で頭抱えましたよ。


今なんて、育休だイクメンだと世間ではいいますが、何処の国のどこの世界のお話ですか⁉って、本気で思います。


まあ、こんな調子ですから、就学前相談なんて、旦那は来ませんよね。


それと、意外とたくさん相談に来ていて、驚きましたが。


本当に悩みを抱える親子が多いんだなと、子育てに向き合う家庭が多いことにカルチャーショックでした。


ホンマ、我が家は婆がネグレクトだったんだと、子育てして改めて実感した。

里帰りと睡眠障害からの回復

当時の私は、兎に角何も考えずに寝たかった。


安心して眠れるスペースが欲しかったので、多少の遠出が出来るようになっていた息子を連れて、実家へと5年ぶりに帰省する。


もう、それしか方法が思い浮かばず、寝て体力を回復したかった。


たぶん、数日は泥のように眠ると思われたので、帰宅すると真っ先に買い出しに向かう。


とりあえず、寝込む前に子を婆に預け、当面必要な食料を買い出しに向かった。


えっ⁉、実家なのに、どうしてと思うだろうが、婆が帰省する娘親子のために、手料理を作って出迎えると思う⁉


そんな気の利いた人だったら、私等姉妹がネグレクトされるわけないやんか😅


出産のときの様子からしてわかるように、知らない人から見たら、実の母娘じゃなく継母と思われるんだよ。


そのくせ、自分が困ったときは、長女ではなく私を頼る、こき使うのだ。


なぜかというと、私が小4の頃に母娘で母子寮に移り住んだんだが、働く母に代わって、家事全般を任すはずの中学生の長女は、実は何も出来なかったんだよ。


同じ母子寮には、同じ年頃の中学男子がいたが、彼は小学生の妹(私より二個下)の面倒を見て、炊事洗濯をこなし、新聞配達のバイトもして、母親を助けていたわ。


だからさ、私は夜な夜な母子寮を抜け出して、旅館の仲居をする婆のところへ行き、ご飯が食べられないと訴え、食べ物を調達してた。


それが小学校を卒業するまで続いたわけで、中学からは自分で弁当作って学校に通った。


婆は面倒臭がって、三食を作ってくれることはなかったのに、長女は御飯一つ炊けなくて作れないし、次女はその長女の命令がないと基本何もしないできない娘で、三女は偏食(摂食障害?)でご飯と菓子パンと野菜しか食べられなかったので、そもそも適応外なのである。


そんな環境下では、生きるためには自分で何とか確保するしかなくて、見よう見まねで炊事をしようと台所に立ってみれば、キレる長女にボコボコに殴られるため、仕方なく夜な夜な母子寮を抜け出すしか方法はなかった。


なのでこの頃の私は、朝食を食べたことがなく、学校の給食がなければ、一日一食の日もあった。


その地獄の日々から解放されるのは、私が中3に進級する頃になる。


そう、この年の春、長女は高校を卒業し、就職して家を出て、三女も働きながら定時制へ通うため、二人して母子寮を出ていった。


これが、心療内科の医師が言っていた「生き難さから解放された」瞬間なのである。


次女との生活は、ほぼ揉めることもなく穏やかに過ぎていった。


この時、思ったのが『これが普通の世間並みの生活というものか』であり、婆も平和な時間に余計に帰らない日が増えていった。


実は婆はこの頃、社宅の一部屋を名義借りして一人暮らししており、母子寮には週に1~2回(月一?)帰ってくればいい方で、一週間から十日は平気で留守にする。


たぶん、母子寮へきてから一年も経たないうちから、育児放棄して三日に一度しか帰ってこなかったのだが、婆の寝泊まりする場所、それを知っているのは私だけなのである。


えっ⁉、なぜ姉たちは知らないのかって⁉


そりゃ、何らかの精神疾患と発達障害があるからじゃね⁉


知らんけど、確実に言えることは、全員何らかの発達障害があるよ。


たぶん、婆による育児放棄が原因だと思うけども。


さて、そんな非常識な婆が、帰省する娘親子の面倒を見ると思う⁉


ありえないよね😅


だから、帰省して最初にするべき行動は、食料の買い出しだったというわけ。



さて、それから一週間ほど、私の記憶がほとんどない。


子どものご飯とお風呂以外は、婆が面倒を見ていたので、起きてるか寝ているか…起きている時は子の食事と風呂だったので、それ以外は泥のように寝て過ごした。


無意識に習慣化しているので、時間になったら子の食事を準備して食べさせ、後片付けは婆がしてくれるというのでまかせ、私は直で寝ていたらしい。


その食料がなくなる頃、買い出しで外へ行き、また帰宅すると寝る。


ひたすら寝て過ごしていたようで、意識が浮上したのは、帰省して一週間が経過していた。


でもまだスッキリしているわけじゃなくて、さらに一週間ほど同じ行動をしていたらしい。


この辺りの記憶がまばらで、あまりよく覚えていない。


ただ、二回ある花火大会のうち、7月の最後の週末の花火大会で、旦那が実家へ来たので、それからは意識が戻っている。


そんなある日、買い出しで訪れたショッピングモールで同級生に再会し、自宅に電話がかかってきて、誘われることが増えると、チマチマ出歩くようになって気力も復活する。


また、不思議なことに息子の言語が増え、意味ある言葉が出るようになっていた。


こうして最初の帰省は、夏休みの終わりとともに終了した。

睡眠障害とカサンドラ症候群

息子が幼稚園に通い始めた頃、私の肉体と精神は、とうに限界を超えていて、日々不調を訴えていた。


眠りたいのに眠れず、横になってもすぐに目が冴える。


寝返りを何度も打っても寝つけないし、ずっと朝まで時計の針とにらめっこ。


やがて、静かに寝静まったキッチンで、ぼーっと座ったまま夜を明かす。


そんな日がつづ教になり、追い込まれていった。


一方寝室では、子どもと一緒にイビキをかいて寝ている旦那に、無性に腹が立ち、ムカついて仕方がなく、イライラが止まらないので、殺意と同時に自殺願望に苛む。


自分でも自覚があるため、何とか思いとどまっているが、何もかも投げ出したい衝動に駆られる。


こういうのを更年期障害というのかもしれないが、まだ三十代半ばで、産後からずっとこの状態なので、いろいろな病院を受診して不定愁訴と言われつつ、婦人科系の病気もなく、検査を受けても異常なしと言われる。


こんなに疲れて怠いし、ろくに寝れない状態で、異常なしと言われても困る。


今ならマグネシウムや亜鉛、鉄分などのミネラル分が欠乏しているとわかるが、血液検査で異常が見当たらないので、何が原因かわからないまま時間だけが過ぎていた。


産後の体調不調って、こんなに続くものだろうか⁉


確かにかなり無理をした自覚はあるが、なかなか元に戻らない。


あとは精神的なものが大きく、子の発達障害より旦那の発達障害が、家庭内のトラブルの原因と言える。


さらに、子の発達障害とヒルシュは、私のせいだと罵ってくるので、腹が立って心療内科を受診した。


心療内科では一通り検査を受け、IQテストも受けたところ、予想外の結果が出る。


ナント、私は世間一般でいうと、IQが高めで115以上あり、偏差値はおそらく60~70ほどあるというのだ。


はあ⁉…田舎の底辺高校卒ですが、大学受験は奪われてさせてもらえなかったので、偏差値なんて考えたこともなく、周囲に大卒と思われているので、上手く周囲に合わせて擬態していると答えた。


うん、地頭がイイって認識でいいのかな⁉


確かに、人より何かと試験や資格取得は、そこそこするっとできるが、家庭環境のせいで、成績を上げすぎると多方面から妬まれる。


そのせいで、適当に力を抜いてしまう癖があるので、本気を出すことは滅多にない。


だが、子どもの事にしても、私だから面倒見れているだけで、普通ならおそらくとうに生活が破綻し、崩壊していると思われる。


また、旦那は何らかの発達障害があり、私はカサンドラ症候群だろうと言われた。


そして実家は母のネグレクトで、姉たちにも発達障害や何か疾患があると思われる。


事実、彼女等と離れたら、生き難さが軽減した過去があるし、姉のヒステリーと家庭内暴力で、次女姉は崩壊、一家離散で破綻したことも。


同じように、旦那といると「生き難さを感じるのではないか⁉」と、それが睡眠障害が解消されない原因の一つと言われた。


大当たりだ、私はアダルトチルドレンというらしい。


でも、地頭が良いので、様々な困難と症状が隠れて、努力や苦労が表に出にくいらしい。


だから子の難病と育児で疲弊して苦しくても、表面は飄々として見えるので、楽していると誤解されるという。


つまり、人には出来ない事をやってのける胆力と知力があり、難なくこなせて見えるので、周囲は大したことがないと思い込む。


他人とは勝手なもので、それが当たり前になると、依存傾向の強い者は妬む気持ちが生まれ、不平不満を口にして足を引っ張ってくる。


そこで私は、旦那から一時的に距離をとることにした。




息子は年中に進級すると、私はかねてからの計画を実行に移すことにした。


そう、夏休みになったら、即実家へ避難するというもので、一ヶ月以上あるので、休養を兼ねて帰省する。


5年ぶりの帰省である。


目的は休養であり、別居か離婚は、そのあとゆっくり考える。


まず、旅券を予約し、さらに実家で過ごすには車がいるので、レンタカーを手配する。


また、必要な荷物は、予め荷造りをして送っておき、現金は多めに準備しておいた。


そして、当面の生活費として、2~3ヶ月分の生活費を用意していく。


ただ、旦那と言えば、私にそこまでの行動力があるとは、思っていなかったらしい。

発想の転換と転換期

息子が三歳になって、思い切って幼稚園へ通わせることにした。


この時期の息子は、腸炎を起こしては入退院を繰り返しており、意思表示はするものの会話は私としか成立しなかった。


大人の真似をして、言葉らしい発語は繰り返すのだが、何を言ってるか他人はわからない。


ずっと一日中一緒にいるので、私は意思表示していることがわかるため、「○○が欲しいの⁉」と聞き返す事が出来、合っていれば頷いて答えるというコミュニケーションだった。


そう、7ヶ月の終わり頃に腸炎から来る脱水症で入院し、以降1歳半までの長期入院だったので、すっかり成長が止まっていた。


その退院も私が強引に進めたもので、反対する担当医を説き伏せて実行した。


何故かと言うと、繰り返す下痢と脱水症には、多分環境を変えて看護しなければ、いつまでも回復しないと思い至り、思い切って自宅看護に切り替えることにする。


多少、無茶でもこのままでは駄目だと思うので、一度帰らせてほしいと頼み込む。


また、一週間おきの通院と24時間の看病、自宅で朝昼夕と食間と寝る前の投薬、経腸栄養剤のクリニミールを適量飲ませつつ、重湯のようなおかゆを食べさせ、体重増加を目標に努めた。


経腸栄養剤とは、胃で消化せず、栄養分だけを腸で吸収させる栄養食であり、高齢者や胃腸の手術を受けたものが使用する、食べられない人の補助食品である。


通常は細い管を鼻から通し、直接胃に流し込むもので、入院中はしていたが、自宅では両手で握って飲めるマグタイプを用意して飲ませた。


あとは、小まめに幼児用のイオン水を飲ませ、水分補給を心掛ける。


やがてクリニミールを飲むのを嫌がるようになり、試案の結果、成分に影響のない粉寒天を使って、子どもが食べやすいミルクプリン(ゼリー)をクリニミールで作った。


この発想は、病院では得られなかったが、外来でその様子を伝えると、担当医から絶賛されたため、その後の入院で持参するよう頼まれる。


そしてこれが大当たりして、どんどん食べてくれ、一日に必要なカロリーを摂取することが可能になり、半年足らずで目標の体重をクリアする。


そして、二歳の誕生日を目前に、根治術を受けられるまで回復した。


だが、術後も繰り返す腸炎と脱水症に、一年のおよそ2/3を入院生活で送っていたが、徐々に入院する期間が短くなっていく。


その様子から、幼稚園入園を決めた。


幼稚園で同世代と交流すれば、刺激になると思ったからだった。


言葉の問題も解決すれば…と願いつつ、同時に療育病院を受診する。


まず、予約段階で半年待ちで、初診から検査結果まで、約一年半が経過した。

発達障害は○○との闘い 旦那編

乳児は、通常数時間おきに起きて寝てを繰り返す。


だから、目を覚ますとおむつを取り替え、母乳かミルクを与えるわけだが、飲む量は月齢と個人差があって、月齢が進んでもなかなか飲む量が増えない子もいる。


ウチの子もそうで、半年経っても一度に飲む量は100㏄程だったので、なかなかまとめて寝てくれず、二時間おきに授乳していた。


そう、まとめて寝るようになるのは、個人差があって、およそ生後半年を迎える頃で、この頃から徐々に離乳食を始めるよう、育児書やら保健師から言われるが、ヒルシュっ子のような内臓系疾患がある場合、早くても一歳を過ぎてから始めると良いという。


そう、育児書には早ければ早い方が良いみたいな、そんな記載があるが実は逆であり、健常児でも一歳頃から始める方が良いのだそうだ。


離乳食を早める理由は、0歳児(生後半年から)保育園に入園するからで、入園時に離乳食を始めていると、預ける親と園側の保育士が楽だからというのが一つの理由にある。


けれど、ヒルシュっ子の育児書なんてどこにもない。


通常の目安になる育児は、数多くあるというのに、病障がい児の育児書なんてどこにもない。


そもそも発達障害のアル無しの目安になるような、そんな育児書もみあたらない。


そう、大体このくらいの月齢だったら、コレコレこういう事が出来るようになる…程度の話で、この月齢になるまでは、○○は食べないようにとか、離乳食の始め方、保存食の作り方などが載っているに過ぎない。


だから、早々に育児書は投げ捨てたし、保健師に相談しても「身内の方に協力をお願いしてください」というばかりで、現状把握も助力もなく、ひたすら孤軍奮闘するのみだった。


もう、何ヶ月もろくに寝ておらず、体力も気力もガッツリ削られて、日に日に弱っていく私は、思考力さえ働かなくなって、ルーティーンとなった子の体重管理とミルク量を記録し、ひたすらストーマケアに明け暮れていた。


たまに電話してくる保健師は、マニュアル通りの返答を返すばかりで、半年を過ぎたら離乳食を始めてみましょうとか、子の体調ばかり聞くので、だんだん鬱陶しくなってくる。


子が寝ている時間だけが唯一の休憩時間で、合間で家事をするのだけど、その貴重な休憩タイムに電話やらセールスやらが邪魔をするので、日々ストレスが溜まっていった。


起きていても寝ているような意識が朦朧とした状態で、子以上に手のかかる旦那の世話が上乗せされているので、階段を踏み外して滑り落ちたこともある。


ケガしたって、自分のことは後回しになるため、病院なんて行く気力も残っていない。


何せ薬缶でお湯一つ沸かせない旦那である、買い物を頼んだって何も買ってこれないのだ。


炊事洗濯の家事はおろか、子どもの世話なんて頼めるわけがない。


凡そ生活能力の欠片もない人なので、無洗米で炊飯器を使って、ご飯を炊く方法を教えた。


火事になるのが怖いので、湯沸かしポットに水を注いで、お湯を沸かす方法を教えた。


電子レンジを使って、冷凍食品を温めて食べる方法を教えた。


人として、最低限生命維持に必要な、食べる事が出来るように、その方法を教えたんだよ。


でもね、最初なかなか理解できなくて、自分がすべきことという認識がなかったらしい。


だから、私は炊いたご飯を小分けして、冷凍ご飯を作り置き、おかずも冷蔵庫に入れておいて、温めたら食べられるようにしてあったんだが…まったく自分でできなかった。


おかずはお惣菜を買ってくれば、食べられるようにしておいたんだけど…気に入らないと言って暴れる。


だったらコンビニか、お弁当屋さんで買ってきたら済む話だが、それさえ気に食わないと言って暴れた。


要するにモラハラでDVであるが、本人にはその自覚はない。


もう、こうなってくると旦那自身に、何らかの障害があるとしか思えないわけだが…一切認めない、認めたくない様子。


己が親という立場になって、子育てをしているという事が理解できない。


自分が外で働いている、それが責任を果たしたことになり、育児も家事も免除されると思っている。


ならば、最低限自分自身の事をしてくれればいいが、薬缶でお湯を沸かせない人が、冷蔵庫の中のものを温める動作が、自分に結びつかないので、嫁はぐうたら昼寝して遊んでいるようにしか思えないのである。


夜泣きする我が子に付き合って、連日寝不足で何ヶ月も休めていないのに、保健師も「身内の方に…」を繰り返すだけ。


ウチの婆が来るわけないし、来たらきたで、身の回りの世話をするのは私なので、三重苦になるだけだろう。


おまけに実家においてあった、私の荷物は勝手に処分され、ガラクタを送ってくる始末で、人が買いそろえておいたブランド物は、勝手に長女に挙げていた。


昔からそうで、私の者は奴らに好き勝手にされてしまう。


そんな人たちが、私が困っているからと言って、何か助けてくれると思う⁉


足引っ張られるのがオチである。


たぶん、子どもの問題だけなら、私はあそこ迄疲弊しなかったと思う。


そして、私は深刻な状態へと進んでいった。